子供のころ,夏が来ると私は浜名湖で水泳ぎをした。沖に立っている
飛びこみのやぐらの太い脚につかまってもぐっていくと,静寂な青い世
界があり,緑の海藻がひらひらしている聞を,きれいな縞のある小魚が
出入りしたり,体をくの字にまげて静止していたりした。
また,あるときは信州の高原を夜おそく友だちと歩いていると,小川の
の上一面に,何万と数えきれないホタルが青白い光を放って群れ、飛んでい
た。水辺の草むらに両手を入れてすくうと、手の中は妖しい光でいっぱい
になった。
だれでも、子供のときに自然の中をかけまわり ,こんな美しい情景に
魅せられた思い出をもっていることであろう。私はそうした感傷を述べ
るのでなく,なぜ自然の美しさは,幼いものの心にこんなに深くきざま
れるのであろうか,そもそも自然はなぜ、そんなに美しいのであろうか,
と考えるのである。
自然は静止していない。たえず流動し,循環している。その動く姿の
中にこそ美しさがある。生物の世界はもちろん,無生物の世界も,たえ
ず循環していることは,水が蒸発し,雲となり雨となり,地表を流れ,
地中にしみこみ,またそれが蒸発するという例をあげるまでもなかろ
う。 こうした無生物循環とともに,生まれ,育ち,成長し,子孫を残し
死ぬ生物の循環があって,大きな自然を形成している。
私たちが,そうした自然のー断面を見て,美しいと感ずるのは,自然
の中に生きる人間が,一番健康に安全に楽しく住めるところであるとい
う本能的の感覚であるように思える。それは,ちょうど,おいしい食べ
ものが身体に栄養になるのと同じではないだろうか。そうだとすれば,
きたないと感ずることは.人間の健康にわるく,不幸につながることを
直感的に感ずるからといえよう。
人間は昔から,自然の中に住みつつ,ただ自然に従わないで自然に人
工を加え,さらに住みよい安全な環境をつくってきた。家をたて田畑を
つくり樹を植え水を引くなどいろいろのことをやり,そして,いるもの
は自然からとり ,いらないものは自然の中に捨てた。これが,小規模で
時間的にゆっくり行なわれている間は,自然の循環にさして影響なく ,
人工の環境づくりは,だいたい自然と調和していくことができた。
近代になって,科学技術が発達して,大規模に,そして急激に人工環境を
つくりあげ,人びとの欲求をつぎつぎと満たしていった。その一面
は大都市の姿からも見とられるであろう。このようにして,人工環境は
自然環境と対立するような巨大で強力なものとなり,自然の循環はおび
やかされ,自然は破壊されることになった。公害問題はその激しい場面
を見せたものであり ,環境問題は,その基本にある自然環境と人工環境
との調和のとれた共存をはかろうというものである。
人間の欲求は,人工環境を今後ますます増大・強力にする方向に働く
であろう。ときに,われわれは自然にもどることをもっと考えようとい
う議論もでるが,ほとんどの人は,意識的か無意識的か,さらにスピー
ドや能率や快適さを満足させる人工環境を望んでいる。そして、もし具
合の悪いところが出ればその対策を考え,それが出ないような人工環境
を科学技術をもってつくってゆけばよいといった趨勢である。
現在人間は,地球上の資源を集め,これに手を加えていろいろの物を
生産し,いらないものは捨てている。そしてまた,山をけずり,ダムを
つくり, 川を変え,地下水を汲みあげるなどして,自然の循環に大きく
影響を与えている。その勢いは,大気汚染や水質汚濁などで,私たちの
周囲がどんどんきたなくなっていることでよくわかる。
こうした自然環境が美しさを失いつつある現状は,人間の健康によく
ないことであり,ひいては人びとの不幸につながるものであることは,
数量的な環境基準に照らすまでもないであろう。
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