私は、昭和39年(1964年)に大阪市で産まれました。新幹線が開通し、東京オリンピックが開催された年です。母の実家が三重県伊勢市でした。皇學館大学が近くにあるところです。母の体が弱かったため、私は保育園児の時、長期にわたって伊勢の実家に預けられました。また、毎年、小学生の夏休みの時も1~2週間ぐらい、泊まりで伊勢に遊びに行きました。
当時は祖母の家の周りにお店が一軒もなく、住宅地、商業地である大阪市と全然違う山川、田畑が一面にある環境でした。日本の昔ながらの自然状態(おそらく江戸時代、明治時代とほとんど同じ)でした。例えば、外来種のミッシシッピーアカミミガメ、クサガメはいず、日本固有種のニホンイシガメのみが生息していて、かわいいとおもいました。山や小川、田んぼ、野原で小動物、昆虫、植物に触れる機会がたくさんあり、大変に動植物に興味を持ちました。山には、真っ赤なコモウセンゴケが生えていて、日光に当たるとキラキラと光を反射して美しかったです。山に入るとショウジョウバカマのピンク色の花がたくさん咲いていて、可憐さにはっとして感動していました。
また、私は小学校の頃から、農家を営む叔父が購読していたどちらかというと反農業協同組合の立場の雑誌『現代農業』を熱心に読んで、農業に興味を持ちました。昭和40~50年代は今と違って、大量に農薬、化学肥料を使用していました。ただし、叔父はかたくなな反農協の立場でなく、現実を良く見てバランスのある見識でした。私はバランス感を叔父から学びました。
昭和時代は、高度経済成長のひずみである自然破壊、環境破壊が問題となっていましたが、世論、政治の関心は今と違って少なかったです。私は人間と自然が共生できる社会をつくりたいと思うようになりました。そのために高校生の当初は、大学の農学部進学を志していました。しかし、後に政治、経済、歴史の教養が必要と感じ、それらを英語で学ぶことができる大阪外国語大学に進学しました。
人間と自然が共生できるシステムの構築のためには、教育による意識改革の推進が必要です。人類が知っている自然のことは、わずかです。もっと研究を進め、知見を蓄えていける社会をつくる活動を進めていきます。。
Comments